平安時代の末期である1184年、源氏と平氏の戦いで 有名な「一の谷の合戦」が須磨にて繰り広げられた。 須磨浦公園駅を下車、松林を東へ歩くと「源平合戦 800年記念碑」をみて、「二の谷ロックガーデン」、 「みどりの塔」を過ぎると松林の道の南側に「源平 戦いの浜碑」の石碑がある。 このあたりには平家物語で琵琶法師よって歌われた 「一の谷の戦やぶれ・・・」といった源氏・義経軍・範頼 軍に追われた平家一門敗走の歴史がある。 |
![]() |
|
保元の乱、平治の乱に勝利した平氏・平清盛は太政大臣となり 「平氏にあらずんば、人にあらず」と呼ばれたように身勝手な政治を 行っていました。 しかし、そのような平氏の政治に対して不満を抱くものが次第に増え ていきます。 そしてまずはじめに東国の武士団を従えた源氏・源頼朝が富士川 (静岡県)で平氏を倒すため、兵をあげたといわれています。 これをみて全国各地で次々と平氏に対する反乱が始まりました。 頼朝の弟である源義経は牛若丸の話が有名ですが、打倒平氏に 立ち上がった武将でもありました。 当時、福原(兵庫県神戸市湊川付近)に拠点をおいていた平氏を 討つために義経は源範頼とニ進路から攻め込みました。 義経軍は京都 → 丹波 → 一の谷 範頼軍は京都 → 福原 → 一の谷 (上記地図参照) 奇襲戦法を得意とする義経軍は鵯越の急な坂を馬で下ることで 平氏の不意をつき一の谷の戦いに勝利したといわれています。 一の谷の戦いに敗れた平氏は勢力を落し、海路で屋島(香川県)へ 敗走します。しかしながら源氏の追撃から逃れることができず屋島の 合戦を経て、壇ノ浦の合戦で平氏は滅びてしまいます。 (源平の戦いの終結) |
![]() |
|
| 一の谷の合戦 〜鵯越の坂落とし〜 (須磨寺に展示されている動く模型より) |
||
■ 一の谷の合戦・主な人物 ■
| 源 義経(みなもとの よしつね) | 平 敦盛(たいらの あつもり) | 熊谷 直実(くまがい なおざね) |
源頼朝の弟であり、戦術の天才とされた その奇襲攻撃は今も多くで語り継がれ ている。 家来だった武蔵坊弁慶の仁王立ちの伝説も 有名である。 義経は宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦、 これらの戦いにすべて勝利した。 しかし平氏滅亡後は、その人気と才能の ためか、今度は兄の頼朝から命を狙われる 身となる。 義経は各地へ逃れ身を隠すものの、次第に 追い詰められ1189年、奥州平泉(岩手県)で 自害。わずか31歳の生涯を閉じたとされている。 |
平氏の武将。若干16〜17歳の少年だったが 一の谷の戦いで熊谷直実に一騎打ちの末、 討たれたという平家物語「敦盛の最期」の話は 有名である。 笛の名手でもあり、実際に敦盛が使っていたと される「青葉の笛」は現在、須磨寺の宝物館 に展示されている。 また、山陽須磨浦公園駅を下車、右手ある 大駐車場を抜け西へ200〜300mのところに 平敦盛塚がある。 |
源頼朝に仕えた源氏の武将。 須磨の沿岸で熊谷が敦盛を追い詰めたと 語り継がれている・・・ 熊谷は「敵に後ろを見せるのは卑怯なり!」 と扇を招いて大声を上げる。 呼ばれた敦盛はとって返し、戦う。熊谷の力は 強く敦盛は組み伏せられる。 直実は首を取ろうと兜を押し上げる。 とまだ16〜17歳の美しい顔立ち。 直実は自分の息子と同じ年齢であるのと その高貴さにうたれ、刀を止め逃がそうとする。 しかしそこに自分の援軍が駆けつける。 その手前、敵将を逃すわけにはいかず、 泣く泣く首を取ったという。 この二人の戦いは須磨寺の門をくぐり しばらく進んだ左手に「源平の庭」として再現 されている。 |
| このページのトップへ | ホームへ戻る | 観光マップへ |